住職ご挨拶

ご覧頂きありがとうございます。
髙木 順哉(たかぎ じゅんさい)と申します。

當寺は国指定史跡 九戸城跡内の松ノ丸にあり、自然豊かな環境の中に構え四季折々の花々と木々の香りを感じることができるお寺です。

御本尊 阿弥陀さまのもとでお念仏の功徳を広め、寺門興隆と多くの方々が仏縁を結んで頂き拠り所となるよう励んでまいりたいと思います。

よろしくお願い致します。

                                   合掌

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寺院ギャラリー

安養寺は400年以上の歴史のあるお寺です

安養寺はその昔、真言宗慈眼寺(慈眼院)と称し、二戸市石切所の寺久保と呼ばれる場所にあったとされ、天正十九年(1591年)九戸城落の後、現在地に移ったと言われています。

その当初は不動明王を本尊とする真言宗慈眼院と称していたが、万治元年(1658年)に呑誉龍含和尚が、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗に改宗し、寺号を得生山報土院安養寺と改称した。現在の「安養寺」の始まりである。
その後、宝永三年(1706年)に火災にあい、本尊の阿弥陀如来以外の一切を消失してしまい、再建はされたものの、明治初期の廃仏毀釈などにより寺の経営難が続き、当時の住職が他寺院へ入寺したため無住の寺となる。

(火災により本尊以外、お寺の重要書類などの一切を焼失しているため諸説あり伝え聞いた内容である)

呑誉龍含和尚墓碑
呑誉龍含和尚墓碑

明治二十六年(1893年)励誉順冏上人によって安養寺の再興が始まる。励誉順冏上人は慶応三年(1867年)島根県太田市鳥井町で誕生し、幼少期からお寺で修行に励み明治初年には青森県の恐山で修行した。その後、青森県上北郡横浜町の西福寺住職、励道上人のもとに弟子入りし西福寺で法務にあたる。そこに無住の寺となり檀家が困っているという話を聞いた順冏上人は、師僧である励道上人に「無住となり檀家が困っているお寺を再興してみたい」と懇願し了承を得て、安養寺に入寺する。三十五世住職となり、檀信徒と協力し出来ることからお寺を再興していき、様々な活動を通して檀家からの信頼も高まり、慈眼院時代の不動尊の信仰の復元も考え、千葉県 成田山新勝寺への再三の懇請により不動尊のご分霊を勧請し安養寺本堂に奉安する。明治三十七年の日露戦争の際には、戦勝および兵士の武運長久等の祈願を厳修し、信仰を集めた。さらに岩手県知事を務めた國分謙吉氏等と共に、戦没者慰霊祭や出兵者家族の慰問、ブラスバンドを結成し兵士の歓送迎の演奏をし激励した。

こうした行いにより、万人の尊敬を集め檀家や信者も増加し大正八年(1919年)に私財を投じて境内を拡張し、不動堂を建立する。大正十年(1921年)には許可を得て『得生山報土院安養寺』から『成田山護國院安養寺』と改称し、ご本尊阿弥陀如来を祀る本堂と不動明王を祀る不動堂をもつ寺院となり現在に至る。

 

順冏和尚は幼少期に、屋根瓦が頭にあたる大怪我が原因で聴力に障害がありました。年齢と共に症状が進行しながらも、その行動力で人々の尊敬を集めました。
安養寺は、2度の火災にも関わらず檀家の方々と呑誉龍含和尚、励誉順冏和尚の尽力で守り守られてきた由緒と歴史のあるお寺なのです。

安養寺 三十五世 中興 励誉順冏 上人
安養寺 中興 三十五世 励誉順冏上人

浄土宗の宗旨

名称 浄土宗
宗祖 法然上人(源空)(1133年~1212年)
開宗 承安五年(1155年)
本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)
教え 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、
人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。
お経 お釈迦様がお説きになった
『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経をよりどころとします。